Review
総合演劇雑誌 テアトロ 2009年10月号より
浦崎浩實 著 上半期の傑作舞台(一部抜粋)
- 世評にのぼらなかった(管見の限り、そう思われる)傑作というと、古城十忍・作演出「中也が愛した女」(於・赤坂RED\THEATER)が、そうだろうか。05年に朗読劇として書かれ、上演された〝旧作″ ゆえなのか? 作者によれば、通常のストレート・プレイが朗読劇として上演される場合、読み上げられるト書きがいやで、最初からト書きを呑み込んだ台詞にした、と上演資料に書いている。
- 朗読劇というと平板な舞台がつい思い浮かぶが、その時の台本に手を加えず、今回、ストレート・プレイとして上演。ピンタを張るような台詞、スピーディな展開は、それゆえなのだろう。俳優の身体は、劇の時間軸の潮目を先取りするように、いち早く変化しているように窺えたのだった。
- 膝の高さの平台がメインの舞台で、原稿用紙を模したマス目が施され、背後の壁面まで延びている。平台の〝外部″に椅子が二脚ほど。それが舞台装置(美術・礒田ヒロシ)のすべてで、裸舞台に近く、詩人の中原中也と、小説の習作を書いていた(批評家以前の)小林秀雄、ヒロイン長谷川泰子が心をむき出すようにぶつかり合うのである。
- 恋愛劇だが、甘い場面は一ヵ所もなく、砂漠で水を求めるような青春の飢餓感が漂い出てくる。大岡昇平は評伝「中原中也」で、〝師″である小林を(敬意を込めて)、既に「思索するエゴイスト」が窺えると記していたはずで、本作でも小林は率直に飢餓感をぶつけ合う点で似た者どうしの中也と泰子の激情から、ちょっと退いた人物として描かれる。
- 一人の女を取り合うのは、当時のカフェー文化だ(つまり、女性の社会進出の場が限られていた)と、浅田彰だかが座談会(「ユリイカ」誌と記憶する)で発言していたと思うが、男に〝オレの女″と呼ばせながら、(男と)対抗的に、というか対等の強い意志の女として描かれているのは喜ばしい。
- 泰子(山田キヌヲ)の切羽詰ったように発せられる言葉。そして、中也死後、歳月を隔てて弟・思郎(池上リョヲマが兄弟の二役を好演)が泰子を尋ねてくる場面は、澄み切った泰子の心象がほの見えるようで感動的である。
- 「小林は既にわかっていた恋愛の結末を、口一杯頬ばらされる。以来彼は小説を書きもしないし、他人の小説も信じない。彼は批評家になる」(大岡「中原中也」)のだが、批評家として自我を確立する前の、主体のボヤっとしたような小林秀雄(溝渕隆之介)もいいと思った。
- モデルものの場合、観客は人物を〝現実″に引き付け、舞台に押し返す。押し返すまでもない芝居もあるが、「中也が愛した女」は〝現実″に耐えて、それを超えているのでは。
